道具を迎えるということ。ー 付喪神と、ものに礼を尽くす感覚ー
前回、針供養や鋏塚の話をご紹介しました。
折れた針を豆腐に刺して休ませる。
使い終えた鋏を塚に納める。
ただの道具に対して、ありがとうと伝え、丁寧に送り出す。
そういう文化が日本にはあった、という話でした。
では、なぜ日本人はそういう感覚を持つのでしょうか。
単なる「もったいない精神」だけで説明しようとすると、少し足りない気がします。
節約。
資源の有効活用。
まだ使えるものを捨てない合理性。
もちろん、そういう面もあるでしょう。
けれど、針を豆腐に刺して休ませる、鋏を供養する、包丁に感謝するという感覚は、
もう少し別のところから来ているようにも思えます。
それは、ものを完全な無機物としてだけ見ない感覚です。
人が使う道具にも、どこか人格のようなものを感じる。
暮らしを支えてくれるものに、どこか神格のようなものを感じる。
だからこそ、粗末にできない。
だからこそ、最後にありがとうと言いたくなる。
その手がかりになる言葉が、「付喪神」です。
つくもがみ、と読みます。
付喪神とは、古くなった道具に霊性が宿り、神や妖怪のような存在として現れるとされたものです。
古い傘。
器。
箪笥。
琴。
鍋。
履き物。
布。
道具。
日々の暮らしの中にあるものが、ただの物ではなく、
どこか人格や神格のようなものを帯びて見える。
それが付喪神の世界です。
もちろん、付喪神は古事記や日本書紀に登場するような、
国家神話の神々とは違います。天地創造や国土生成に関わる神でもありません。
中世以降の説話や絵巻の中で育っていった、
古道具にまつわる民衆の生活の中から生まれた物語です。
けれど、だからこそ面白い。
そこにあるのは、遠い神話の世界ではありません。
台所にある包丁。
引き出しの奥の鋏。
長く使ってきた財布。
部屋の隅に置かれた家具。
私たちの手元にある、生活の道具の世界です。
付喪神の物語として知られる『付喪神絵巻』では、
捨てられた古道具たちが妖怪となって現れます。
長く人の役に立ってきたのに、惜しまれることもなく捨てられた。
そのことへの怒りや恨みが、古道具たちを妖怪に変えていく。
怖い話として読むこともできます。
けれど私は、その前提の方に興味があります。
道具が怒る、という発想が成立するためには、道具が何かを感じている、
という目線が必要です。
道具にも、扱われ方がある。
道具にも、礼を尽くされるべき何かがある。
そういう感覚が、物語の背景にある。
つまり付喪神の話は、道具への恐怖の話であると同時に、
道具への敬意の話でもあるのだと思います。
日本には古くから、山や川、木や石、火や風に神を感じる感覚がありました。
自然のあらゆるものに、人間を超えた気配を見る。
そうした八百万の神の感覚は、自然だけでなく、
人の暮らしの中にある道具にも及んでいったように見えます。
付喪神は、その延長線上にあるのかもしれません。
山奥の神でも、天上の神でもない。
もっと身近な、手元の道具に宿る気配の話です。
この感覚は、針供養や鋏塚ともつながっています。
針に痛みがあるわけではありません。
鋏が言葉を話すわけでもありません。
包丁が感謝を求めているわけでもありません。
それでも人は、道具に対して「おつかれさま」と思う。
役目を終えた道具を、乱暴に捨てたくないと思う。
道具にも道具なりの終わり方があるように感じる。
そこには、道具を人格的に扱う目線があります。
そしてその目線は、終わりのときだけに生まれるものではありません。
本当は、迎え入れるときから始まっています。
新しい包丁を買って帰ってきたとき。
箱を開け、初めて手に取り、置き場所を決める。
ああ、これが自分の包丁になるんだな、と思う。
その瞬間から、それはもう店頭に並んでいた商品ではありません。
自分の暮らしに関わるものになります。
気に入って選んだ器を食器棚に入れるとき。
新しい財布を初めて鞄に入れるとき。
仕事で使う道具を机の上に置くとき。
私たちは、ほんの少しだけ丁寧になります。
それは高価だから、というだけではないと思います。
家に迎えたものに対して、自然と礼を持つ。
これから自分の暮らしを支えてくれるものとして、少し丁寧に扱う。
そういう感覚が、私たちにはあるように思います。
ここで、微笑ましい話をひとつ。
漫画『キャプテン翼』の主人公、大空翼くんには、有名なセリフがあります。
「ボールはともだち、こわくない」
サッカーボールを友達と呼ぶ。
よく考えると、かなり不思議な言葉です。
けれど当時、それを読んだ子どもたち(つまり私たち)は、
それを当然という感覚で受け入れていた経験があります。
ボールをただの道具として扱わない。
大切にし、怖がらず、信頼して向き合う。
そうすることで、ボールは自分の一部のようになっていく。
翼くんのボールと付喪神が同じ文脈にある、
というのは言いすぎかもしれません。
でも、ものに人格のようなものを感じ、礼を持って接する感覚は、
神話や説話の時代から、マンガの時代まで、
形を変えながら細く長く続いているのかもしれません。
ものを大切にするというのは、長く使うことだけではありません。
迎え入れるときから、丁寧に扱うこと。
使っているあいだも、手入れをすること。
役目を終えるときには、少しだけ感謝すること。
その全部が、ものとの関係を作っていきます。
もちろん、すべてのものを神聖視する必要はありません。
現代の暮らしには、短い寿命を前提にした道具にも役割があります。
衛生のために使い捨てが必要なものもあります。
安く、軽く、手軽に使えることが大切なものもあります。
けれど、身の回りにあるものすべてを、ただの消耗品として扱ってしまうと、
暮らしは少し荒れていきます。
安いから雑に扱う。
また買えばいいから捨てる。
どうせ壊れるから大切にしない。
その繰り返しの中では、ものにありがとうと言う感覚は生まれにくい。
付喪神という考え方を現代の暮らしに引きつけるなら、
ものに本当に魂が宿るかどうかを信じることよりも、
ものを最初から粗末に扱わない感覚の方が大切なのだと思います。
家に迎えたものに、礼を持って接する。
使いながら手入れをする。
役目を終えるときには、少しだけ感謝する。
良いものを長く使うということは、ただ丈夫なものを選ぶことではありません。
そのものと、丁寧な関係を結んでいくことでもあります。
付喪神という少し不思議な物語の奥には、ものをただの消耗品として扱わない、
日本人の古い感覚が息づいているのかもしれません。
そしてその感覚は、今もどこかで残っています。
だからこそ、道具にありがとうと言いたくなる。
だからこそ、使い終えたものを粗末にしたくないと思う。
だからこそ、新しく迎えたものにも、丁寧に接したいと思う。
ものを大切にするという感覚の奥には、モノにも神格や人格のようなものを見て、
礼を持って接してきた日本人の感性が、静かに息づいているのだと思います。
良いものと、長く。
ZACK.HAUS
長く付き合えるZACKのプロダクト
国内在庫:1個
国内在庫:10個
国内在庫:3個
国内在庫:32個
国内在庫:2個
国内在庫:6個
国内在庫:3個
国内在庫:12個
国内在庫:3個
国内在庫:3個
国内在庫:10個
国内在庫:3個
国内在庫:3個
国内在庫:1個





























































































